50代の日常

半世紀生きてるオバサン

命の期限=体験の期限

昨日の日記は長すぎた。

打ち直そうとしていたところへ、今度は夫からのLINEで検査にひっかかったという連絡が入った。
私の夫は自営業だが、ネフローゼを患っている。ネフローゼという病気は、例えば手すりのない長い長い橋の上を歩いているようなイメージがある。普通に渡ることは出来る。しかし、ちょっと油断すると橋から転げ落ちる。転げ落ちた先は増薬、それが続くとやがて透析というハンディが待っている。

夫は退院してから7年、一度の再発を経験してからは数値は比較的安定しているものの、毎回「次こそ減薬になるといいな」とか言ってるが、今回始めてクレアチニン値が標準枠を超えてしまい、再発でもないし自覚症状もないものの、来月も検査と相成ってしまった。

夫とは、アラサーの頃に知り合って結婚した。今年で結婚22年になる。
お互いにO型なので、イニシアティブを巡ってぶつかり合いする事も多かったが、お互い年を取ると相手に対する興味も失うようで、どうでも良くなった分平和な関係が続いている。

夫も人の話を聞かない向きがあったが、結婚した頃から読書は小説よりも啓発やマニュアル本の類で、ここ数年、最初は「うなずく」「相手の言葉を繰り返して同意を表す」とかのそれらの本にありがちな動作を実行するようになった。最初はまた始まったな、と思っていたのだが、彼も板についたのか、あるいは私もどうでもいい話をしなくなったのかどうなのか、話を聞いてもらえるというのは嬉しいことなのだと今は素直に思う。ただ、申し訳ないがその程度で「家族愛」とか「夫婦愛」という言葉はピンと来ない。

しかし、昨年の再発の時は、今思うと腹が立っただけだったのだが(なんでイイ大人で責任もあるのに自戒自覚できねーんだよという、そういうやつ)、今回はああ、下手すると死んじゃうんだ、今じゃないけどいずれ死んじゃうんだ、とそんな実感の芽生えがあった。

まあ、それもこれも実家の父のここ1年くらいが、トラブル続きでみるみる弱っているのを見ているせいかも知れない。以前、父は私の成長の証言者であるので、やっぱり失いたくないという気持ちがあると日記に書いたような気がするが、夫にも命の期限がある事を思うと、やはりこの家庭を一緒に作ってきた証言者なんだと思った。

正直、エゴだとは思う。父や夫自身の身を案じるより、私を構成する一つの要素として失いたくない、という事ではあるから。しかし、実際はそういうものなのではないだろうか?と思う。
まあ、もちろん、なるべく体調維持が出来るよう、家族として余計なストレスはかけないように振る舞って行くつもりではある。

そして、私が先に逝ってしまう場合もないわけではない。しかし、どうだろう?それだと誰かを失う不安や悲しみからは逃れられて、私が今最大の楽しみになっている眠りにずっと入る事が出来る。

でも、いざ死ぬとは経験の終わりだとと実感されてくると、いやもうちょっと…辛いことが多くても構わないから生きていたいかな、と思うのは不思議な感じがする。多分、あー生きて来て良かった!!と思えることなんざ、もうこれからの年代でそうそう経験することもないだろうし、普段からつまらん人生だったな、と思う事の方が多いのに。今ここで、死んでしまう=経験する事がなくなってしまうのは更につまらん。かと言って、これから数十年生きて「つまらなさ」が挽回出来るとも思えないのにな。

 

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