50代の日常

半世紀生きてるオバサン

「卒母」のあの人

西原理恵子の女の子への生き方指南の本が売れている、と新聞に載っていた。
その日私は本屋へ行っていて、平積みになったそれを見ていたし、すごい人だなぁと思う。

絵も可愛く、手書きの文字も読みやすい。内容は過激だったり、人物が怒ると顔が紫色になったり歯がサメみたいになったりしても基本的に可愛くて不快感がない。ましてや彼らがふと我に帰るというか、シリアスモードになると目がぽちぽちしたとても可愛く、そして頼りない寂しそうな顔になる。手書き文字も感情炸裂の殴り書きのように見えるが実は読みやすい。しかも大抵は縦書きで、縦書きの文字というのは書いてみるとわかるが体裁が整えにくい。

書評を交えたそのインタビュー記事は、彼女の育成歴、上京してから仕事を選ばずに、しかし自分の好きな分野で続けて来られた事がお金に繋がり、ほぼ女手ひとつでも子供二人を育て上げ、彼らの行きたい学校に行かせてやれた事などが書かれているという。

知ってた。

私は、彼女とほぼ同じ世代だし、私も長いことマンガ好きだし、サブカル系の雑誌も好きだったから、どこで読んだかはさっぱり忘れたが、この人は前からすごいと言うか、ヤバいと思っていた。私が知った頃は既に「過去ネタ」としていたが、若い頃はアダルトビデオの現場レビューみたいな事もしていて、若い女(西原さん)が延々目の前でまぐわいを見て云々…という話が、白目でダラダラ汗描いている例の顔で描かれていたのをおぼえている。「できるかな」の何編だかも憶えていないが、一緒に組んでいる人たちの履歴現職もなんかヤバい人で、その人たちが今も新しい本の著者として書かれているのを見たりすると、廃人になったり行方不明になったりしてないんだ良かったー、とか思ったりする。そんなよ。

でも、そんな「カット描きだけど基本エロ雑誌ライターでもなんでもやった」系の女は彼女一人ではなかったと思う。いちいち挙げないけど、それこそ私なんかが立ち読みでも手を出せないようなガチのエロ雑誌で、エッチなコミックを飯の種と割り切って描いている女子もたくさんいたと思う(とかいう話をテレビで見てた)。今は普通だろうけども。

私がこの人ヤバいと思っていたのはエロ系のネタよりも、高レートのギャンブルに手を出したり、異国の僻地に行って呑んだくれたり、ヤク決めたり(本人じゃなくて、同行者だったかもしれない)、超高給レストランで正直に「金額ほどじゃない」とか言ったりケナしたりするネタの方で、身体を張っているというより、取材中に死んでもおかしくない事もたくさんやってきているように思える。

女の子が自由に生きて行くためには自分で稼いだお金!というのは間違ってないし、基本社会的には弱い立場に置かれがちな女性に優しい目を向けているとは言え、本のどこかに「私の真似はしないで下さい」って書いてあるといいな…と思う。多分、その辺うまーく面白おかしく描いているかもしれないが、そうか!若いうちは仕事選んじゃダメよね!って目キラキラするような人がいたら、西原さんの昔の体当たりレポートマンガや鴨ちゃんとの同居コミックとか探して読んで一旦頭と肝を冷やした方が良いと思う…

それでも、今彼女がお金も得て豪邸を建て、子供も無事育ち、ご主人を亡くされたけれども今セレブな人と恋愛関係にあって幸せそうなのは良いことだと思う。そういうサクセスストーリーを勝ち取る人がいると、オバサンたちはちょっと救われた気分になる。最近編み出した「卒母」という言葉と「年取るのは悪くない、なくしたものはウエストだけ」という言葉は彷徨えるオバサンたちに福音となる。かもしれない。

セレブ彼氏の高須さんが連れて行ってくれた、世界から選ばれた会員でなければ入れない秘密組織?に潜入した話をネタにコミックを書いてしまい、彼氏からこっぴどく叱られた顛末までをもネタにしてしまった話には笑った。あと、元裏社会の猫アイコンの人の連載に絵を添えているが、私はたまたま組分裂騒動が起きた時、何でだかtwitterのタイムラインで見ていて、その筋のジャーナリストがかなり慌てている中で淡々と今起きている事を報告していたのを目撃していた。その数年後、西原さんによって腹巻きをした猫に描かれ、好き嫌いが激しくてJKみたいでウザいと評されていた。やっぱスゲェ。こんな風に描けないよ普通。この場合雑誌編集もスゴイって事になるのか。怖。

卒母宣言のあと、またこれから若い頃とは別の意味で捨て身のネタ堀りに行きそうな気がする。オバサンたちの光明として、出来れば非業な死に至らないように気をつけて活動していただきたいと思ったりします。

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スピ系

前の続きのようなそうでないような。

実は、今年とあるPTAの役についてしまって、そこからクジ引きでまた別の役になるという貧乏クジを引いて栄誉をいただいてしまった。

PTAについては愚痴しか出て来ないので、長々と打ったけど私自身が不愉快になるのでやめておく。
残りの期間、粛々と勤めさせていただく所存ではあるが、長女、次女の小中学とそれなりに参加して来て思う事だけ。

バザーくらいにして後はインターネット上で連絡を取り合い、web上で公開あるいは内輪で閲覧すればいいようなものがかなり多い。実際にPTAの役割を細分化してネットで募集したらあっという間に埋まった、小さな事、一日だけで終わる事だったらむしろ子供の学校活動に参加したいと思っている親はたくさんいるのだ、という記事を見かけた。

まあ、それはそれで毎年埋まるのかどうか、実際に一切の根回しがなかったのかとつい疑いの目をかけてしまうところもあったりして、ノープロブレムというわけには行かないとは思う。

ともかく、要は私がそういうものをスルーするよりも、実は好奇心が上回ってつい手を上げてしまったのが悪かった。手を上げた分ならそれなりに全うする覚悟はあったのだが、その貧乏クジで引いた役までやるキャパシティがなかった。

そんなわけで、問題を先送りにし、夏休みを見ないようにして過ごし、学校が始まって活動開始という時になったら、信じられないくらい精神的にダメージが来ていて(と言うのは、実は今までにそんな自分を客観的に見ている自分がいるのだが、割とどうも出来ない事が多い)、朝目覚めると「ああ、また今日も一日が始まるのか…いやだ」と思っていた。まあ、小学校の頃からそんな人生ではあった。

しかも、私は自営業の手伝いなので喋ってうさを晴らせるおばちゃん同僚もいない。連絡を取れば愚痴語りに付き合ってくれそうな人はいなくはないが、パニック持ちだと「予定を決めて、予約して、キャンセルすることなくそこに到着する」ということが、大変なプレッシャーになる。

とは、今は実はそこからちょっと抜け出しているから言える事で、自分でも「たかがこんな事に、バカか」と思ってはいるのだが、「でもやっぱり自信がない、絶対当日具合が悪くなる、そして私はもうやっぱり駄目な人間なんだ」という、どうしようもないループにハマって更にメンタル下降して行ってしまうのだ。

と、打ってみると大袈裟過ぎて笑ってしまうのだが、多分メンヘラって皆こんな感じだと思っている。過去に述べたかどうだかだけど、私はメンヘラなんかじゃない!と否定し続けて結局40代半ばで心療内科通いになり、ひと頃は多種の抗うつ剤に縋って仕事も中断せざるを得ない状況だった。パニック発作だったんですけどね。治療はうつ病と変わらなかったと言う。

乗り物にさえ乗らなければ、なまじ普通に生活出来たため今度は子供の関係でコミュニティに入らざるを得なくなり、それがもう毎週末車で移動があったり、単に乗り物酔いしやすいとしか理解してもらえず、ようやく復帰出来そうになったら今度は老齢に突入しているという有様で。

夫にも、「不安なんてものは自分が作り出しているものだから」とか言われても、そんなこたわかっているのである。忘れるか、無視するかしても、私の脳の記憶には実際に出来なかった、無理して倒れた、電車に乗れなかった、疼痛障害が出て無限に歯医者に通いそうになった…という過去ががっしり刻まれていて、いよいよそのPTAの活動開始、となった時に軽くパニックに陥って思ったのが

「私、無事に年越せる気がしない」

だった。

繰り返すが、今は全部解消されているわけではないが、だいぶ軽い。
前の日記で書いたNLP系の本やら、ネット記事やら、ポッドキャスティングを聞いたりしているうちに、暗示で押さえつけるのではなくて

「まあ、役に立てなくてもしょうがないし、そこまで期待もされてないよ」

と、開き直り気分になった。
そういう役を引き受ける以上、学校の役にたたなくては!と、なんかク□真面目だったなぁ、と思った。思えば大抵の事は変に真面目になり過ぎて、しかしそういう度量のある人間ではないので、満足に出来ないと自虐に奔っていたのだろうと思う。要するに空回りってやつ。

NLP系の方はやっぱり、今後は図書館とかで色々な人のを読みに行こうかと思っている。快い言葉をくれる人はそれはそれで能力があると思う。パニック解消の本でも繰り返し、「脳のエラー」「考え方の癖」「育成歴や経験のつらい話」が原因なので、今のあなたはそれらの責任を取る必要はない、と書いてある。

そこから本来の自分を見つける、他の集中出来ることを見つける、あるいは目をそらす、全力で逃げる、と様々なジャンルでいろんな事が書いてあるが、要は何でもいいらしい。逆に、思考ループや過去を忘れて自分だけの人生を生きる、という事がいかに難しいかという事ではあるんだろうと思う。

結局、私は困った時はやっぱり本屋や図書館で、本が答えを導いてくれる事が多いが、それもよく言われるように、私の中に答えはもうあるんだけど、覚悟がついていなかったり、思っていた事が言語化されている他人の文章を見て、間接的に「こうなんだよ」と言ってくれるのを見て、勝手に一人で思っている事ではないんだ、と安心したいんだろうと思う。

とかつらつら考えていると、80年代頃から発生して脈々と続いている「スピリチュアル系」の事を思い出す。ハイ、私も買いました。シャーリー・マクレーンの本。まあ言ってる事は大体今と変わらないんだけど、あれも一つの流行りでしたね。シャーリーは何というか、役者としても「そういう人」なのが、今過去作なんかを見ても微笑ましい限りですが、踊った人もそりゃもうたくさん居て、こういう歴史は繰り返して行く中の、私も塵芥のような一瞬で消える存在で、まあだからこそ好き勝手しようというわけじゃないけども具合が悪くなるほど悩んだり、過去の自分を掘り起こして自虐する趣味はそろそろストップしようかね、というところです。

最近、嫌な夢ばかり見ていたのに、今朝見た夢は、20代の頃やっていた習い事のレッスンをするため、レンタルの部屋を借りる夢でした。今日は何からやろうかしら、最近はずっとあれをやっているし…と思いつつ私は部屋に入るんだけど、目が醒めたらもう「それ」からは自主卒業して18年も経ち、その間復帰したいと思いながら一切再開出来なかったものでした。

さて。

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NLPまわり再び

と言っても、私の場合非常に緩い。ただその手の本を読んでは忘れるだけに過ぎない。
と言うか、この手の本は「自己啓発」ジャンルに入ると思うのだが、そもそも最初に夫が買って来たのだ。

私は、古本屋で味のある文章を書く小説を読むのが好き。そこで展開されるドラマが好きで本を選んでいたが、夫は、直接自分の役に立つ本が好き。いわゆる自己啓発的な、タイトルだけ見ると、この本を読めば誰でも簡単に成功者や大金持ちになれるというヤツである。買ってから20年経つけど、ちっとも成功者でも大金持ちでもないです。

夫は、私が持っている小説本の類は絶対に読まないが、私は本好きだし、文章に修飾の妙とか何もないその手の本なんか1時間もあれば大体読んでしまうので、ヒマな時は気が向くと手に取って読んでいた。で、まあそれは割と良かった。

その本は翻訳もので、タイトルは忘れてしまったがインド系のアメリカ人心理学の教授が、ビジネスマン向けに行ったセミナーが評判となり講義が著書になったというもので多分「幸せになるにはどうたら」というタイトルだったと思う。
あとがきには、その教授がビジネスマン向けの心理教育を依頼されて行ってみると、皆エリートなのに満たされず、不満や不安でいっぱいなので驚いて独自のメソッドを編み出した、というものだったが

結局、NLPとは「本当の自分とは」「本当の幸せとは」とか、今自分で自分に蓋をしたり、鎖に絡め取られていたらそれを外してみましょう、というもので、アメリカ発祥だけに具体的な手法があったりする。言葉に発してみたり、簡単な動作での儀式を行う事で「感動した」「ここが自分の本当」という感覚を思い出させる。

とか、私はその専門家でもないし一切講習とかを受けた事がないので適当な解釈ですけど。

で、ここんところ、実家の父のこの1年くらいの様子を見ていて、もう正直改善に手がつけられないのと(無事であるだけで十分ではあるのだが)、何より私が不安神経症やパニック症状は実は父親から受け継いでいると年々実感しているのと、私自身が以前のような様々な事に対する興味が薄れて、「気晴らしに何かすれば」と言われてもその何かが全く思いつかなくなっているのに危機感を抱いていた。

あえて興味があるとすれば今流行りのミニマリストなのだが、先日の話になるが今までろくに使いもせずに場所だけ取っていたものを捨てよう、処分しようと決断する時に、何というかネガティブな感覚ばかり浮かんでどうしようもないのだった。

「こんなものにお金を使ったのか私、お金だけじゃなくて揃えるまで検索したり、関連するものを見たり随分時間もかけたよね…」

「確かに、あの時はそのプロセスだけで楽しんだと思うけど、やっぱり年取ると執着もなくなるけど、意欲もなくなるのねえ。ミニマリストは良いけどさ、じゃあもし自分が80まで生きたとしてあと30年?その間何を楽しんだらいいわけ?」

「今は欲しいものとかないし、買ったってどうせ飽きて捨てたり処分するんだよね…虚しいよね」

って感じでまあ、本屋にすらろくに行っていなかったのだった。
で、まあ、何冊か手に取ってはやっぱり買うのを躊躇ったものの、1冊買った。
買って出口のところで、今流行りの心屋なんたらさんの本もチラ見したのだが買わずに、家に帰ったらポッドキャストが配信されていたのでそれを聞いていた。

まあどっちもNLPでした。っていうか、NLPって言葉自体忘れてたんですが。

最初に、夫が買ってきた本もお互いに再読を繰り返しているうちにどっかへ行ってしまったのだが(多分職場にある)、それも長い長い、様々な悩める人々のモデルケースの後に「こんなエクササイズを試してみよう」というものが書いてあって、最初はやってみるのだがそれが「わずか5分」「わずか3分」であっても、やっているうちに自分で「読んだ時の魔法」が解けちゃうんですよね。

「これ…自己暗示だよね…っていうか今日あんなことがあったのにこんな前向きになれんよ」
ってまあ、私の場合ひねくれてるだけで、夫の場合は単純に忘れてそう。割と脳筋だし。

それというのも、昔の職場で経営者セミナーとかいうやつのお手伝いをしていたんですが、セミナー中は手伝い側の私のような普段ダウナーな人間まで「そうなんだ!」と気分が盛り上がってしまうくらい、ああいうコンサルタントの人は話が上手いんだよね。
もちろん、それが悪いとも思わないし、ただ向き不向きという点では私は暗示にはかかりにくい方だと思う。
すぐ「仕組み」に気づいて、というよりも「そんなうまく行くわけないでしょう」とばかりに裏を探りにかかってしまう。

でも、今回そのNLP周りの本を読んだり、ポッドキャストを聞いていて、やっぱり自分で自分を制限しているな、とは思いました。
かと言ってセミナーとかにまで行く気ないですけど、でもわかんないな。何しろもう、50代女が今から入れるコミュニティという事を考えると、その手のポジティブセミナーなんて割と良いような気もする。多分金の切れ目が縁の切れ目タイプのコミュニティでしょうけどね…

結局、その本のタイトルは色々検索キーワードを入れても出て来ない。そこそこ売れた本だとは思うのだけど…かわりに出て来るのは、今のNLPセミナーの話ばっかり。大半が危ないビジネスとか宗教じみているようにしか見えず、あまり近寄りたくない感じ。80年代に大流行したスピリチュアルに似た勢いを感じる。まあ、根底にあるのは似たようなものだとは思う。儀式と気づき。やっぱり宗教である。

確かに「親の代から◯◯教徒」という人が何人か私の周りにはいるが、実を言うと「子供の頃から信じているものがある」という拠り所があるのは羨ましい。ただ、下手に羨ましいなどと言おうものなら教会や集会所やらに連れていかれてしまうので、言えない。NLPも今そんな感じがある。彼らに共通するのは、自分たちのいる場所が心から良いところと思っていて、これが広がって、一人でも本当の自分とやらを見つけて幸せになれば、本当に平和が訪れると心から信じているのだろうとは思う。
私は元々スレッカラシの上にBBAというカルマが加わってしまったので、なかなか自分の蓋だの鎖だのを外すのは容易ではないし、今から宗教に入信して楽になれるほど純真ではない。

ただ、昔も今も「話上手な宣教師」の元に人が集まるのだろうし、それこそ言葉や見せ方が上手なのはそれだけで食べて行ける才能がある、ということなのだろう。私が買ったその本の著者にしても、心屋さんにしても、「言葉で、他人の心の鎖を解く」のは具体的で上手いと思う。ただ、いずれ「要するにどういうことか」に気づいてしまうのも時間の問題な気がする。…こういう所が、私の駄目なところでもあるんだが、それこそ心屋さんの本にあるように

「どうせ私なんか頭の回転が速いから~」
ってうそぶいとく事にしよう…これでいい事あるのか疑問だけど、この先にいい言葉を考えつけるかどうかって事なのだろうね。あと、前者=マルチ人間、後者=天然ボケあるいは天才、天使って説は面白いのでもうちょっと読み聞きしようと思います。多分うちの家族は真っ二つ。

さてどうするか。大体方向は見えている気はする。

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ドキドキの形

秋は過ごしやすいようで鬼門だ。
秋の物寂しさがどうとかより、季節の変わり目に年々身体がついて行けず、そういう意味では春も良くない。
でも、まあ、冬は冬でどうせ寒い寒いと文句を言うのだから、やり過ごすしかないと思っている。

何でもかんでもやり過ごすしか能がなくなっていくのを実感する度に年寄りになる情けなさを感じるが、そもそも若い頃だって毎日起きている間は常に意欲的だったわけでもないので、出来るだけ淡々と生きて行きたい。という気持ちだけで、相変わらず鬱っぽいのはもうどうしようもなく、毎日鬱と諦め、現実逃避とぐるぐるしている。

家の壁の補修は予定より早く終わった。
壁紙の下に石膏のような薄いボードが張ってあり、そのボードごと貼り替えた後壁紙を張り直してもらった。
予定より大幅に壁紙は貼り替えてもらったのだがあっという間だった。
思えば彼らは新築の時は何室もの壁紙を張ったりするのだろうし、賃貸は空きが出れば全部貼り替えになるだろうからさすがプロである。2人、いかにも親方っぽい風体の人と、どう見てもまだ20歳前後の若く内気そうな職人が叱られながら作業していた。頑張れ、君の未来に幸あれと思った。

さて、一日置いて、結局ある程度の本は本棚に戻した。
本棚は2つあって、1つは粗大ゴミに出す勢いで、マンガの類はネット買取にメールして送るだけになっている。
それでも、どうしても処分出来ない本が結構ある。いや私より夫の方が最近本が多い。
私には捨てろ捨てろと言う割に逆転している気がするが、むしろ要る要らないの判断が面倒なのかもしれない。

家族の本は適当に、自分の本は順番を揃えて戻した。
とある、さほど多作でもなくさほど有名でもない作家の本が好きで、コレクター性格でない私でもコンプリート出来る程度のものだが、もう亡くなってほぼ絶版になっている。しかしブックオフに持っていけば間違いなく0円、並べられるのは108円の棚だろうと思う。

いわゆる私にとっておそらく最後の「萌えネタ」がたくさん詰まっているのだが、自分でも再読する機会はあまりないような気がする。昔、古本屋で集めた大作マンガを、やっぱり古本なので売っても値段がつかないので再読する片っ端から破いてゴミ箱に捨てた。また読みたかったらセットで大人買いすれば良いと思っていたが、結局買ってない。

小説類も、多分そうなんだろうとは思う。
CDもそうだ。とあるジャズピアニストの音楽が好きで、やはりコンプリート出来るくらいのアルバムが売られていて、片っ端から集めていた。海外のAmazonじゃないと手に入らない物もあり、もし粗悪品が送られて来たらどうしようとドキドキしながら買ったりした。

CDも、他のプレイヤーのとかはよくディスクユニオンに行って買ったりした。ディスクユニオンは私が親しんだ古本屋に近い空気があって好きだった。名作も駄作もごっちゃに売ってるけど、名作のレア物は間違いなく高い。目利きがいて、やるなしかし掘り出し物を見つけてやる、という意欲がわく、それが古本屋に行く醍醐味だったように思う。

小説本は今は電子書籍があり、音楽も1曲づつネットで買える。
あんなに検索しては買い求めていたのに、とはあまり思わない。あの新しいものが手に入る時のドキドキが楽しかった。
本やCDはそのドキドキが形になったものだと思う。
だから家族が読んだり聞いたりしなくても、私がそれを開かなくてもいいのだと思っている。

ていうか、本当にここまでになるまで、相当のものを手放したり処分したり、相当葛藤して来たんだからね私。
でも、まあ、多分残りもそのうち、どっかで感想文でも書いたら処分するのかもしれない。

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さよならおもちゃ屋さん

今日、歯医者の待合にいた時、テレビで米トイザらスの破産のニュースが告げられていた。
いわく、アメリカで大人気だったおもちゃのデパートが、インターネット通販の便利さに客を奪われ、ニューヨークの旗艦店が閉鎖になった後、全米でも売上が落ちて経営維持が難しくなったとのこと。

ニュースでは加えて、大手デパートも同様に、家賃の高いところにあえて店を持つ「旗艦店」が閉鎖に追い込まれる事態になっているという。
昨日ちょうど、夫名義で某百貨店の商品券積立をしているため、百貨店から季節のお買い物のパンフレットがいくつか入ったものが届き、夕食後のひと時、かわるがわる眺めていた。
が、まったく欲しいものもなかったし、何やらの見学会だの、カルチャースクールだのの企画も、心惹かれるものが何一つなかった。元々、さほどデパートには縁がないが、一応、その手のものを見るとああ、たまにはこういうの良いかもねぇ、なんて思ったりはしていたような、気はする。

今やここまで無関心になってしまったのは、意欲が減退し過ぎているのではとがっかりもしたのだが、もう、実際そんなに私たちはモノを必要としていないらしい。むしろ、要らないものは棄ててスッキリと暮らそうという時代なのかもしれない。

子供にしても、もう誕生日やクリスマスプレゼントにオモチャを欲しがる世代ではないが、まだ本当に幼かった頃、実家から車で少し行ったところにトイザらスの店舗が出来て、遅くに出来た初孫が「これ欲しい」と言うものをそーかそーか、じゃあジジババが買ってあげよう、というやつをやってみたかったのだろう、誕生日、クリスマスと連れて行ってくれた。

いつから、こんな風になってしまったのだろう。今はスマホひとつで色々叶えられてしまうとは言え。

幼い子供に、年寄りがおもちゃのデパートで存分に見回って好きなものを買ってあげる、買ってもらう。
欲しかった、可愛い服を見て回り、何着も試着してから買う。
そんな「心温まる交流」、手に売れた時の喜び。

それと、ネットで迷ってレビューを読み込み、迷った挙句に買ってそれが届いた時の喜び。
あるいは、ショッピングサイトを比較してあれこれとサーチして、1円でも安く買えたと思う時の感覚はいじましいが、やっぱり満足感があるものだと思う。

SNS好きなら「開封の儀」を写真に撮って上げるかもしれない。フォロワーからいいねがたくさん届けられる。
(私は、インスタはやっていないけども)

そこの違いが、やっぱり私にはイマイチわからない。
こだわりもない方だとは思うのだが、これで良いのかという抵抗だけが気持ち悪く残る。
でも、多分世の中は変わって行き、今すごいスピードで変化しているのを目の当たりにしているのだろうと思う。

「幸せな家庭」の「嬉しいプレゼント」を、「子供の夢のため」に演出するおもちゃ屋…
こうやって羅列してみると、もう、まるで広告コピーのためにだけあるような言葉に思える。

本の断捨離

私の住まいは賃貸だが、西北にある部屋の壁を補修してもらえる事になった。

今の賃貸に限らないかも知れないが、窓がそこそこ大きい部屋は大抵結露がつき、風が通らない部屋はカビが付く。
結婚して、住まいを借り、どこもそこそこ5~6年住んで来たが、1年とまで言わなくても2年過ぎると、食器棚やタンス、本棚の壁際にカビの黒い染みがつく。

本棚の裏の壁紙も、掃除してくれるのか貼り替えてくれるのかはわからないが(夫が話を聞いているのだが、ヤツは本当に細かいところはちゃんと聞いてなくてソコが大事だろ!!とよく思うが治らないので諦めている)、ともあれ我が家ででかい顔をしている本棚を空ける作業を昨日していた。

私は本が好きな人間だ。小学校の時から、学校や公共の図書館が好きで、古本屋が近所にはたくさんあり、それらの本で育って来た。手元に置いておきたい本も多いし、結婚した時に持ち込んだ私物で一番多かったのはマンガだった。それでも全部持って来られなかったのだが、私が本持ちで夫は面食らっていたようだ。

今となっては確かに、もう本棚の前で逡巡する機会は本当に少なくなってしまった。とは言え少しづつもう読まないもの、一応持っておきたいけどネットで見るとそこそこ値がついている古い本などは近年になって次々と手放してきた。

だから、本棚にある本の中身は自分でも把握出来る量だと私は思っているのだが、夫にすると読まないモノは家のスペースを占領するだけ、という態度で今でも「これまだ読むの?読まないならブックオフに持って行くけど?」としばしば聞いてくる。

どうやら、私と夫では本というものに対する思い入れが違うようで、私は私なりに手放す時に変に心が傷つくらしい。10円で買い取りされるくらいなら最後にもう一度読んで、自分で破って捨てた方がマシだと思っているし、実際実家にいる時はかなりの本を棄てて来た。私は大好きな作品でも明らかに紙は茶色に焼けているし、実際近所の古本屋に持って行ったところかなりの本は引き取ってもらえなかった。

なーんて事を考えつつ、かなりのダンボールに本を詰めていると次第に落ち込んで来た。
前の住まいはとても狭く、ただ子育て真っ最中であったため、どうせ読むヒマもなかろうとその住まいにいたまるまる10年、ダンボールに詰めたままの本もたくさんあった。ここへ移ってやっと封印が解かれたのに…と思った。しかし実際は何度読んだかどうか、しかも私は年を取ってマンガの類に心が躍らなくなっているのも実感した。

例えば、私が事故などで突然死したとして、これらの本たちの処分には家族は困るだろうなぁ、と思ってはいる。
一応、パソコンの目立たないところにエンディングノートのようなものはつけているのだが、その時ですら本気でこれらの本の行方の事は一切考えてなかったな、と本棚から引き出しながら改めて思った。

つまり、やっぱりちゃんと考えようとはしていなかったんだなぁ、と向き合う羽目になった。
もう、人生の下り坂を実感してからこんな事ばっかりである。

いくつかのコミックや、美術館でつい買ってしまう図録などはヴィンテージものを扱う本屋や専門書店に相談しようと思っている。自分自身も、そういう古本屋に行くのが大好きだった時期があって、神保町の古本屋街に行くのは休日の贅沢なレジャーだった時期もある。でも、今はもう行っても、またいずれ処分にこまるものが増えるだけ、という気持ちの方が先立ってしまっている。

おそらく、本から手軽なネットやスマホのアトラクションで満足出来てしまっている向きはあると思う。
いちいちガッカリしてないで、いつの間にか変化している自分を認めて、不要なものは処分すべきなんだろうな、と思う。

とは言え、今本棚から空けてダンボールに詰めたものに部屋が半分埋められていて、これを処分するか、どう理由をつけて保存しておくか、元の本棚に収めるまでに大変な葛藤を繰り返さねばならないようだ。自分でも大袈裟に何を言っているのかと思ったりもするが、前はもっと日々楽しみがあって生きていられた気がするのに、今は日々のルーティン作業と、過去の自分との対峙やら訣別やらの繰り返し(また大袈裟になった 笑)で、しんどさばかり強くなる。

まあ、過去は早めに処分してスペースも空けば、またそこに入れたい何かも見つかると信じよう…

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今頃「マトリックス」を見た

NHKBSで「マトリックス」を放映していたので、録画しておいたのを見た。
もう18年前?の当時、私は既にインターネットを始めていて交流のある個人サイトさんの日記などでレビューを読んで、面白そう、私絶対好きなやつだと思いながらも未見だった。

私は当時長女が赤ん坊で、その5年後に次女を出産して彼女らが保育園、小学校を卒業するくらいまでは映画館で映画を見るどころか、当時流行り始めて傑作もたくさん出た深夜アニメも映画もほとんど見る事が出来なかった。いや、やろうと思えばいくらでも手段はあったはずだが、当時はフルタイムで仕事もしていたため生活の優先度から娯楽、趣味と言った類のものはぽろぽろと抜け落ちて行ってしまう。

ともあれ、ようやくゆったりと「マトリックス」が見られた。
物語的には、この当時でこの今どきのソシャゲ的な展開は当時はやはり新鮮だったのではという気がした。でも多分、物語自体よりもゴージャスな画面やVFX、観念的な主題の方が話題になったのでは、と思う。VFXについては「マトリックス以前以後で映画は変わった」という評論は見ていたので、これが噂の…とは思った。これはもう、近年のもっと凝ったものを見てしまっているのだから仕方ない。

現実と仮想という問いが繰り返し出てくるのには興味を惹かれた。人間発電所は内心ねーよwと思いながらも、ハードSFの永遠のテーマでもあるAI対人間ネタが、人間発電所という見世物で表現されているならアリだと思った。何より、人体に電源というかバルブと言うか、何か人工的なものが埋め込まれている絵面ってショッキングなものですなぁ。アニメなんかでは抵抗ないのに、やっぱり生身の人間が出ている映画とはこういうものなんだと。この手の、特に主人公ネオが人間発電所のポッドを破ってから救出されるまでの場面、「生身の人間としては生理的にイヤな表現」が盛りだくさんすぎて目が離せなかった。

この映画の中の未来がいかにディストピアであるかを、2000年を前にした当時の人に伝えるあれこれが盛り込まれているのは確かにすごかっただろうな、とは思いました。

過酷な現実と思い通り理想が叶えられるヴァーチャルのどっちが良いか?というネタについては人類の永遠のテーマなんだろうけど、笑ってられなくなる時代がもう近い気がしている。ちなみにこの手のテーマに私が始めて触れたのは手塚治虫の「火の鳥宇宙編」のエピソードで、仮想現実に囚われている男が、主人公の説得も受けずにポッドに引きこもってしまう。主題は別なところにあってもっと壮大で、この場面がどうしても検索出来ていないんだけど確か宇宙編で間違いないと思う。それもあって、長らくゲーム否定派だったけど、仮にゲームじゃなくても物語に没入して現実逃避するのと何が違うのだろう、とはよく思っていた。いずれにしろ仮想現実やゲームの影響とかが話題になるたびについ思い出してしまう。

今思うことは、結局はいかに仮想現実が本物の現実と違いないくらいに感じられるテクノロジーが実現しようとも、生身の人体生理をコントロール出来るテクノロジーが出来上がらないうちには、生の現実を理想に近い形に持っていくしか明るい未来を描く事は出来ない。それをまあ幸福の追求っていうのかな?

なんて言い方が思わず哲学的な感じになったけど、たとえば胃もたれしている時にご馳走映像匂いつきなんて気分が悪くなるだけだろうし、頭痛や怠さがあるのにハイテンションで話しかけてくるVRのイケメンがいても鬱陶しいだろうという、この不自由な身体の中に設置されている脳である限り、身体の方が先だろうという下世話な話ですね。

結局は、この手の「仮想現実に逃避」ネタというのは、眠っている時の夢の方が近い気がする。それこそ、夢なんて機械文明以前から研究されていてもよくわかってない?らしいから、やっぱり映画のようなVRの時代はまだまだ先で、その前にディストピアの方が実現してしまいそう。

 

とか思いつつ概ね楽しんで見てたんですが、クライマックスでのヘリで高層ビルの外から銃乱射、には内心ちょっと醒めた。なんでハリウッドはコレが好きなんですかね…VFXの新しい手法盛りだくさんの映画の中でコレやらなくてもいいじゃん。ハリウッド大作のお約束だったのかな。

機械と人間、現実と仮想、盛りだくさんの仕掛けが売りの映画ながら、キアヌ・リーブスが一番イイ男の時に大ヒットしてよかったね、というのが一番印象に残ったのが後になって面白いなと思いました。トリニティ役のキャリー・アン・モスも青い目と思慮深い感じの表情が素敵でしたねぇ。結局は演じる生身の役者の旬を楽しむのが映画という娯楽であって、まあシチューの肉みたいなものでだけど肉だけじゃ美味しくないしね、というわけのわからない感想を持ちました。

肉は美味しい。そんな結論で良いのか 笑

ただ、「ブレードランナー」なんかも近年になってようやく見た名作映画なんですけど、ハリウッドの男性俳優ってそんなに良いか?って思う人多いんだよね…こと、こういうSFテクノロジーものだと頭が切れる主人公であって欲しいんだけど、割と脳筋みたいな役者多くない?キアヌ・リーブスはとても天才ハッカーには見えない。イケメンがハッカーとかあり得ないというわけじゃないけど、何というかある種のオタク臭を纏う演出をして欲しいとか思うんですよね…まあ個人的感想です。

さて、近々続編も放映されるのでいそいそと録画予約はしました。